ウォールデン

休日に早稲田松竹でジョナス・メカスの映画『ウォールデン』を観た。3時間もあり時間を合わせるのが大変だった、二度寝しかけたのだがなんとか起きて前日に調べていたギリギリの時間に電車に乗った。溝の口で急行に乗り換え渋谷で山手線に乗り換える。ホーム端から渋谷の街を眺めると翌日オープンを控えていたスクランブルスクエア(スクスクと呼ばれるのだろうか)がヒカリエの横にそびえていた、屋上は有料の模様。山手線は一番前の車両だと座れることが多いが、流石に10時台前半はまだ難しい。

 

高田馬場で降りてファミマでパンとコーヒーを買い映画館に駆け込む。早稲田松竹は建物が立派で席もゆったり作られている。ファミマで何度か話したことがある女性を見かけて多分メカスの映画を観に来たのだろうと考え、話しかけようと思ったのだが止めておいた。知り合いというほどではないし話しかけて一人の時間を邪魔しては悪い。

『ウォールデン』はメカスの代表作の一つなのだが観たことが無いと思い込んでいて、DVDを購入しようかずっと迷っていた。しかし今回映画館で観始めて以前観たことあるのに気が付いた。いつどこで観たのかは思い出せない、『ロスト・ロスト・ロスト』などを観たのと同じ時期なような気がする。97年頃に東京でだろうか?それとももう少し前に関西で?

 

割と最近まで西新宿で開催されてたイメージ・フォーラム・フェスティバルの会場やアマゾンで何度か『ウォールデン』のDVDを買いかけたのだが、手が出なかったのは無意識がこれ観たことあるよと止めていたのかも知れない。

メカスはリトアニア出身で自身はユダヤ人ではないがナチスに反対する新聞を書いたりして収容所送りになる。そこを脱走した後も憲兵に捕まり難民キャンプに入ったりしていた模様。

 

終戦後メカスはニューヨークに渡る。リトアニアは終戦前ソ連の一部になったからメカスはソ連も嫌っていたのだろうか、リトアニアに残ればソ連軍と戦うパルチザンになっていたのかもしれない。あるいは当時は共産主義、少しは社会主義にも共感はあったのだろうか。このあたりのメカスの政治的な信条はよく分からない。後のインタビューで官僚化、警察国家化したソ連を嫌ってはいたようだ。

 

渡米後芸術のコミュニティの中心の一人になっていった過程を見ると、新しい関係性を作ったのが政治だと言えるのかもしれない。晩年詩人の吉増剛造氏と一緒に教育テレビ(現ETV)によく出ていたりもしたので顔を見たことがある人も多いのではないだろうか。

メカスはニューヨークに渡り職を転々とした後、映画カメラを手にして周りを撮り始める。メカスの名前はリトアニア語読みではヨーナス・ミャーカスと読むらしいのだが渡米して英語読みでジョナス・メカスという名前になったようだ。読みが変わって映画を撮りそうな名前になったようにも思える。しかしその歩みはゆっくりしている。

 

難民として労働者になり随分経ってからカメラを手にすると同時期に映画に関する文も書き始めたようだ。このあたりの文章は『メカスの映画日記』で多く読むことが出来る。ゴダールが映画批評に関しても独自の文体だったのと同じようにメカスも独特の文体を持っている。メカスは詩人でもあるのだが、映画評論においては割とゴツゴツした文体だ。これはアンダーグラウンド映画を新聞という簡潔に伝えないといけないメディアで紹介する際に形作られた面もあるのだろうか。

 

映画作品を発表するのは渡米後12年経ってからである。カメラを先に手に入れてたにせよメカスもまず書くことから入ったと言えるだろうか。

『ウォールデン』は渡米19年後に編集された。これがメカスの日記映画と言われてる映画の第1作だとすると時間をかけてゆっくり作られた作品だということが分かる。余計に力が入ったところも無くメカスのニューヨークの生活が淡々と語られて行く。疲労や倦怠さえ語られているのだ。

 

日記映画を観たことがない人もこの作品に向き合うと自然にこの作品の劇映画の時間とは違う時間と空間の流れにすんなり入って行けるだろう。もしこの作品が退屈だという人が居ればその人は映画にカタルシスや暴力的な刺激を求めているのかも知れない。

 

大都市ニューヨークとはいえ半分は公園など都市の中の自然や郊外や出かけ先の森が描かれる。この映画の宣伝に「ニューヨークの前衛アートシーンを描いた壮大なる叙事詩」というのがあるがそんな印象はあまり受けない。タイトル通りニューヨークという森で撮られた映画のような印象で、メカスの目の前の光景と芸術を軸にしたコミュニティの様子が淡々と写し出される。カメラも奇をてらったものではない。ぶれ、ピンボケも個人がカメラを手にしてそれまでにない自由さも持ち合わせ撮っている表現として自然なものだ。

 

しかしメカス以前には見られなかった映像言語が確立されている。メカスの独特の映像言語とは何だろうか、それは目の前の日常の光景が異化され遠い昔あるいは遠い未来の出来事のように捉えられているところだろうか。早いスピードで映像が流れるように見えても全体としてはゆっくり流れているように感じられるところもある。時間をあるときは引き延ばし、あるときは早送り、全体では悠久の時を映し出しているとも言えるかも知れない、メカスの映画の声の語りはゆっくりとしている。

 

そのように感じるところもあるし、たまたまその惑星のその瞬間に居合わせて撮られたものを観ていると感じる部分もある。カメラを身体に引き寄せて使っているのだがスタン・ブラッゲージのようにどこか内臓を連想させるような映像ではない。

 

『ウォールデン』はリュミエールに捧げられているのだが、カメラで目の前に広がる世界を写すということの不思議さは留め置かれ、そこからさらに事物や人間の存在のありようをリュミエールの唯物的な映像とは別様に捉えてると言えるだろうか。これを即興で行なって行くには確かに時間がかかっただろうと感じる。(整体にもこういう試行錯誤に裏打ちされた瞬時の臨機応変さを出していけたらと思う。ちなみに整体ReBootは内臓を整える整体もやっています。)

映画は難民移民としての視点と巡り合った仲間たち、カメラを手にした後使い方を忍耐強く試す時間から自然発生的に生まれたものだろう、メカスの元々の性格も大きいだろうか。(山羊座の性格?)どれが欠けていてもこの映画は誕生しなかったのではないだろうか。

 

付け加えるとすれば大西洋の向こう側からのアメリカへの視線がかすかに感じられるというのは考えすぎだろうか。映画の中ではむしろ大西洋の向こうのリトアニアへの望郷が語られるのだが。その視点を考えたのは地中海カシスの湾が唐突に映し出されたからかも知れない。地中海もリトアニアが面してるバルト海も直接はアメリカに向いてないのだが繋がってはいる。別の文明や別の大陸からの眺めというのはあるかも知れない。

この映画には他にサーカスとファクトリーという要素も登場する。サーカスの映像は少し退屈だが面白くはあるし、この作品が完璧過ぎないところではいい小休止になっていると感じる。

 

ファクトリーで印象的なのはやはりベルベット・アンダーグラウンドだろうか。ファクトリーでの初ライブの様子が映し出されてるが、ファクトリーが出てこないところでもセッション音源だと思われるラフな演奏がサントラとして使われている。

 

ベルベッツのブート音源は結構聴いているのだけど、このあたりで使われてる演奏がいつのものなのかよく分からない。

(クレジットに再編曲と書いてあるが誰が再編したものなのだろう?ルー?メカス?ウォーホール?詳しい人教えてください)

この音源は手元に置いて聴いてみたい。出来ればCDがいいのだが無ければ結局『ウォールデン』のDVDを買えばいいということか。

ブラッゲージをロッキー山脈の麓に訪ねたあとニューヨークに列車で帰るとき朝日がニューヨークを照らしているシーンは美しいが何か少し怖ろしくもある。「将来この豊かな緑に恵まれた大地も消えて無くなるか、もしくは残るにしてもこのような豊かなものではないかもしれない。」(うる覚え、DVDもし買えば訂正します)というメカスの少し予言的なナレーションが入る場面もある。他のナレーションが割と淡々としたものであるのでそれは印象に残る。

 

前半に感動的な『十字架の聖ヨハネ』の朗読が多分メカス自身の境遇と重ね合わせて使われたりもしていたがこれは引用だ。この辺りは68年版からあったのか88年版で加わったものなのかはよく分からない。

 

メカスはこの映画で日記映画を確立したあと数々の作品を撮り今年の初め死去する。作家としてだけでなくアンソロジー・フィルム・アーカイブスというフィルムセンターを運営し映画の保存や修復、上映の場を運営する。日本で撮った作品もある。メカスは金融恐慌とオキュパイも311も目の前にしていたことになる。第二次世界大戦をくぐり抜けたメカスはそれををどう見ていたのだろうか。※

 

この映画を観ている途中、松葉杖をついた人が途中入場で歩いて来て斜め後ろに座ったようなのだが、長い時間ビニール袋をガサガサしていて周りに響いていて止まなさそうだった。入れ替えが無いので途中入場で次回に向けて腹ごしらえしてたのだろう、途中から入って来たのでこの映画における映画館全体の音響も分かっていなかったようだ。誰か注意するか合図を送って欲しいと思っていたのだが誰もしないので僕が横の空席、ガサガサしている人の前の席をうるさいですよとバンバンと軽く叩いた。僕が席を叩いてしばらくしてその音は止んだのだが、我慢してたら自然に食べ終わって止んでいたかも知れない。イライラして悪かったかなとも思ったのだけど、映画館で長時間ビニール袋をガサガサさせるのは遠慮していただきたいとは思う。

 

この男性の音が止んだあと、もう少し後ろの男性が短時間ビニールをガサガサさせたのだが、それが僕にイライラするなよと伝えたものなのか、長時間ガサガサの男性にこれくらいなら大丈夫なんですよと伝えたものなのか、あるいは深い意図はなかったのかは分からない。

 

『ウォールデン』は『リトアニアへの旅への追憶』と二本立てだったのだが、何度か観たことのある『リトアニアへの旅への追憶』は観ずに映画館を出て整体の勉強に向かった。

 

※あとでメカスの本『ノート、対話、映画』を読むとメカスは311に対してコメントを寄せていた。