遊歩について

散歩するときに中沢新一氏の『アースダイバー』や『ブラタモリ』の地層や歴史や文化を軸にした歩き方というのがあります。僕もよくいろんなところを気の赴くまま歩いているのですが、そういう歩き方はあまりしてません。
「あまり」と書いたのは、その場所の歴史や文化をある程度知ってる場合もあって、やはり地層や歴史によって形作られた空間でもあるので、知らず知らずのうちにそういう風に空間を認識してることはあるかも知れないからです。

ではどういった態度で歩いてるか。人間が認識しようが認識しまいが世界はあるといったような新しい唯物論や人新世的な態度でしょうか。それとも違うと思います。
現在の空気に触れながら即物的に自然や街を感じているところはあるかも知れません。自分の状態を街を通して確認している、一人で孤独を楽しんでいる、街に出て群衆の一人になっている、あるいは何かを表明している?良くわかりません、態度を決めないで歩いてます。

 

僕の友人がよく職質されるので、それならいっそ泥棒や犯罪者のような視点で街を歩いてみると面白いと言っていたことがありました。亡くなったラッパーのECDさんにもそんな曲があります。監視カメラや高性能スマートフォン、PC使用によって僕たちは潜在的に不審者として扱われてもいるところもあるでしょうか。しかしネガティブに見るなら閉鎖的な社会、管理が行き届いた国では人の目が監視カメラのように働いているところもあるかも知れません。

最近はそんなこととは遠く健康維持の為に歩いてるところもあります。歩くと適度な筋トレになりますし同時に過緊張してた筋肉が弛んでそれにつられて骨も元の位置に戻ることもあります。肺機能も血流も良くなり副交感神経も働いて自律神経が整うという効能もあります。歩き疲れて姿勢が悪くなれば、少し体操をして姿勢を戻してから歩き直せばいいでしょう。これは整体的な歩き方だと言えるかも知れません。

このような歩き方は遊歩者としてはかなり後退しているでしょうか。個人的にいま時間があまりないせいもありますが、いまはベンヤミンの言うようにはなかなか都市を歩けないというのも実感としてあります。これは内面化もされたテクノロジーのせいもあるでしょう。日本の都市は2000年代ぐらいまでは実感ではベンヤミン的?にも歩きやすかったようにも思います。都市と精神に空域があったのでしょうね。

「長い時間あてどもなく町をさまよった者はある陶酔感に襲われる。一歩ごとに、歩くこと自体が大きな力をもち始める。それに対して、立ち並ぶ商店の誘惑、ビストロや笑いかける女たちの誘惑はどんどん小さくなる。次の曲がり角、遥か遠くのこんもりした茂み、ある通りの名前などがもつ磁力がますます抗いがたいものとなっていく。やがて空腹に襲われる。だが、空腹を満たしてくれる何百という場所があることなど、彼にはどうでもいい。禁欲的な動物のように彼は、見知らぬ界隈を徘徊し、最後にはへとへとに疲れ果てて、自分の部屋にー彼にはよそよそしいものに感じられ、冷ややかに向かい入れてくれる自分の部屋にー戻り、くずおれるように横になるのだ。」ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』3巻 岩波現代文庫 訳者不明

これはかなりストイックな遊歩ですが、こういうウォーカーズ・ハイのような状態になるのは遊歩者にはよくあることかもしれません。しかしこれはどちらかというと青年の歩き方でしょうか。ポール・オースターの若い時期のエッセイや小説を思い起こさせもします。ストイックなベンヤミン的遊歩はちょっと身体には負荷が強い歩き方かも知れません。もう少し遊びを入れるなら、くたくたになってから飲み屋やカフェ、その他の場所にたどり着くのもありでしょうし、ベンヤミンならもう一つの側面、蚤の市(古物を売る露店や屋台)のようなところに立ち寄りながら歩くのもありでしょうか。今なら中古レコード店や古本屋、ブックオフやリサイクルショップですね。長い遊歩の途中にショッピングモールに立ち寄ると別の場所に見えて来るという経験もあります。不況時に生活に困窮して歩いて遠くの炊き出しに並ぶということもありうるでしょうか。

現在はコロナウィルス感染拡大で小さな公園は混雑しているので、郊外の方は駅前や幹線道路以外のあまり人が居ないところを歩くというのはいいかも知れません。都市に住んでる方も人が居ない場所を見つけて歩くことは出来ると思います。見放されたような場所を再発見するのもまたいいでしょう。

アースダイバー的遊歩はある一定の過去に縛られ過ぎでそのことが頭でいっぱいになり、目の前の現実と力学が見えなくなるところはあるように思います。人新世的態度は死亡遊戯という言葉をなぜか思い出してしまいます。そのことを歩いてる時にあまり考えすぎると都市が廃墟や毒物のように見えて来るかも知れません。あまり何も考えずに歩くことにします。

中国やイスラエル、グーグルとアップルのコロナウィルスの感染者の可視化はポケモン GOの進化版で面白く、やがて怖いですね。ゾンビ映画とリアリティゲームの融合です。イスラエルは国家が監視システムをコロナの感染の疑いがある人の拘束に使っていたりして危ないですね。急に防護服を着た警官が現れるなんてSF的現実です。日本政府と行政は適切なコロナ対策と困窮者支援をやっていただきたいものです。

グーグルマップが出来た頃あまり遊歩馴れしていなかった友人と長い歩きをした際に、友人が延々と「いまここにいる」とやるので、いい加減にしろとちょっと怒ったのを思い出します。急に小さな話になってすいません。ショック・ドクトリンによる例外状態の恒常化や、どさくさの法改正はやめていただきたいたいですね。

色々言っといて何ですが、横浜歴史博物館が発行してる『都筑文脈』というアースダイバー寄りなフリーペーパーを先日港北に映画を観に行ったとき都築民家園で発見したので、これの有馬バージョンを書いてみようと思います。有馬はこのフリーペーパーで大きくページが割かれている北山田周辺と隣接してます。でも前置きが長くなりましたのでまたいつか。