傳十道路

割と最近になって長い夏が終わり急に晩秋になったという感じがしています。

怒られそうですが、緊急事態宣言が解除される前の夏の終わりに祖父母が住んで居た家がある尾道市の因島にしばらくフライングで滞在してました。

 

今は無人の家で誰とも会わなく滞在出来るだろうと考え、県をまたいで移動しました。

家を管理している従兄弟に連絡し鍵を借りる手はずをつけておき、目論見通り混み合ってない新幹線に乗り込みました。

コロナ前は夏季に通ってた屋外プールに行き難くなってたのも水辺への遠出の理由の一つです。

そこで一人で毎日海で泳ぐという過ごし方をしてました。子供の頃の記憶や動物的勘、時にはグーグルアースも使い、海岸沿いの道路には面してない山から下ってたどり着く海岸に主に出かけました。

コロナ騒動によって気負いなく孤独な旅人になれたという側面はあったと思います。親戚も誰も訪れませんでした。

その日はフェリーで県境をまたぎ一キロ先の弓削島に着いて海水浴場は休憩場所として通り過ぎ、山道に入って行きました。

弓削の海水浴場といえば、近年訪れることが再び多くなり気がついたことがあります。子供の頃に何度か訪れた海水浴場は弓削商船高等専門学校近くの一番有名な松原海水浴場だと思い込んでいたのですが、因島から見えていた高浜八幡神社前の海水浴場だったということです。ここに立った時に記憶が蘇ってきました。写真では因島南側が見えています。

松原海水浴場には子供の頃はキャンプで一度行っただけだったのを、大人になって両海岸を再訪して理解しました。

 

高浜八幡神社前の海水浴場に行かれる方は海水浴をした後、隣の潮湯に入って帰るというのもお勧めします。

松原海水浴場の近くには屋外で風呂に入れる施設公共のシャワー設備やキャンプ用の水道があります。

そういう海水浴場でなく山から下って行くタイプの海岸で、あまり険しくなく誰でも行くことの出来る海岸があったのでご紹介します。

しまなみ海道をサイクリングやツーリングあるいはドライブする機会があればここにも少し足を伸ばして行ってみてください。バスでも割と近くまで行けます。芸予諸島を回るのはオフロードバイクのツーリングが一番楽でいい眺めの場所にも行けるかも知れません。楽に農道や林道を登り山から海を眺められるからです。

ご紹介する場所は愛媛県の上島町の弓削島の北部です。弓削は芸予諸島の一部で、現在はゆめしま海道と名付けられている島々の一つです。来年初頭にゆめしま海道の島々も全て橋で繋がります。

当初は別の海岸を目指して弓削島循環線の山道に自転車を進めていたのですが、良さそうな下りの小道の入り口を見つけ何も考えずに自転車を停めその道に入って行きました。
忘れ去られて木がが生い茂り道がなくなりかけてるところもありましたが、途中にミカン畑や普通の畑もあって自然と開墾のバランスが良く何か風情のある道でした。

植物の隙間から時折海が見えます。

行き着いたのは綺麗な海岸で護岸工事で整備されてました。

整備されたのは多分1960年代くらいなのでしょうか。

調べずに行き当たりばったりで、吸い寄せられるられるように辿り着きました。

護岸工事の是非は環境の面から考えるといいものではないかも知れませんが、利便性はやはりあるかと思います。沖に作るテトラポットは生態にかなり影響があるみたいですが、海岸沿いの堤防の先に砂浜が残る場合はそんなに悪くはなさそうです。

 

今回の僕にとっては堤防に海に入って行く階段通路が設置されていて、海水浴が快適に出来るところはありました。体に塩は付きますが、足に砂が付きません。あと自然と人工物の境界をまたぐ快楽というのはあると思います。入水路は沖の百貫島に繋がってるような形をしています。昼ごはんを食べてから泳いだり、シュノーケリングをしたり、階段で本を読んだりしました。

読んでいた本の影響もあるかも知れませんが、海洋性ということを考えました。

ここには古くは漁業や農業、ついで海運業者及び海賊、次に工業化された造船業や鉄鋼業、その周りのサービス業が発展し、現在は少しの観光業も加わっているでしょうか。僕も夏休みで来ているのでツーリストの一人と言えるでしょう。

 

それぞれの者が海と関わる仕方があると思います。ただ眺めるだけの者も居るでしょうし、上に書いたように生業で深い関わりを持つ者も居ます。平家や海賊が滅びなければひょっとするとまた違った地域になっていたかも知れません、しかしこの辺りが東京湾とかドバイのようにならない方がいいかも知れません。

川崎市宮前区には海がありませんが、神奈川県の海沿いの人たちもそういうところがあるのでしょうね。

おっと、瀬戸内最大の都市、大阪のことを忘れていました。

 

海運の船や修理に来た大型船や客船、漁船がこのあたりを行き交ってますが、過去には秀吉軍の戦闘船がこの付近を通ったこともあったかも知れません。村上水軍は秀吉によって解体されてたので戦争に参加しなくて済んだでしょうか。

この海岸にも様々な人が訪れたことでしょう。多くは海水浴か釣りか海を眺めるためだと思います。幸せな家族やカップル、僕のように一人で来た人も多く居るでしょう。傷心の人やはみ出し者も中には居たでしょうか。この島は船員が多く住んでいるようなので遠くの海を渡った船員が休暇で地元の海水浴として来たかも知れません。

 

さらに歴史を遡ると船で辿りついたこの島々の祖先が居るでしょうね、彼らはどこから来たのでしょうか。九州、四国、本州を通過点として渡って来たとも、そのまま外洋から入って来たとも考えられます。そう考えると僕の身体にもDNAとは別に海の記憶が書き込まれているかも知れません。思考には間違いなくそのことが影響しているように思います。

 

海水浴は精神的な楽しさや癒しもあると思いますが、身体の全体だけでなく表面、皮膚のトラブルにもいい場合があるようです。

はじめに海岸に辿り着いた時漁業用の発泡スチロールが多く堤防の溝に積まれていて少し痛ましい感じもしたのですが、それは捨てられ海岸に流れ着いた発泡スチロールを溝に集めて木の枝で散らばらないように止めてあったことがあとで分かりました。

海や川や路上にプラスチック類を捨てるのはやめましょう。僕も最近忘れがちなエコバッグなるべく持つようにします。

 

7月か8月に来てガラス石を集めて階段に置いて行った人も居たようです。それによりさらに素敵な海岸になっていました。

ここが海の底に沈まないことを祈りますがもしそうなればまた新たな砂浜が出来るでしょうか。

長い坂を登り山にある周遊道路に戻ると、

石碑がありこの小道と海岸全体が「傳十道路」と呼ばれていることが分かりました。

その横の比較的新しい石碑には

「浩宮徳仁親王殿下ご見学記念 昭和56年7月」とありました。